大判例

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神戸地方裁判所 昭和32年(ワ)682号 判決

原告 平野正 外一〇名

被告 尼崎製鉄株式会社

主文

原告等の請求をすべて棄却する。

訴訟費用は原告等の負担とする。

事実

原告等訴訟代理人は、「被告が昭和二九年五月四日附で原告等に対してなした解雇の意思表示は何れも無効であることを確認する。被告は原告等に対し昭和三〇年一月一日以降本件労働契約関係終了に至るまで夫々一ケ月別紙記載の割合による金員を毎月二八日に支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決並びに右金員支払部分につき仮執行の宣言を求め、その請求原因として、「原告等は何れも被告会社に吸収合併された株式会社尼崎製鋼所(以下尼鋼と略称する)の従業員であつたところ、右尼鋼は昭和二九年三月二九日賃下げを含む企業再建案を原告等の所属する尼崎製鋼労働組合(以下組合と略称する)に提示して来たので、同組合はこれに反対して争議中、尼鋼は同年五月四日附で原告等を含む従業員三八一名を解雇した(以下これを第一次解雇という。)原告等は右争議に於て組合の執行委員、職場闘争委員、組織部長、渉外部員、情宣部員、家庭対策部員、家庭工作隊員、団体交渉員等、又は一組合員として最先頭に立ち強力に反対活動をし、闘争委員会では少数で敗れた賃下げ、解雇案は原告等の活躍により全員投票ではその決定をくつがえしたものである。尚、原告等各人についての組合役員歴等は次のとおりである。

(一)  平野正   昭和二七年職場代表

同 二八年組合書記専従

同 二九年執行委員、情宣部長、家庭対策部長

(二)  有田吉平  昭和二六年職場代表

同 二七年情宣部員、夏季及び越冬闘争委員

同 二八年尼鋼労組機関紙「あまこう」に土建課職場殆んどの者が腰痛を訴えている事実を指摘し部課長等に甚しく注意される。同年春季賃上闘争委員、執行委員、教育文化部長

同 二九年執行委員、情宣部長、組合専従

(三)  土井捨二郎 昭和二四年職場代表(職場民主化の件で課長と対立)

同 二五年職場代表(レツドパージの際パージ組を後援す 以後職場代表責任者)

同 二六年職場代表連絡責任者

同 二七年執行委員、渉外部長

同 二八年闘争の毎に職場闘争委員(積極的に発言行動する)

同 二九年春季鉄鋼産業労働組合連合会の賃上闘争に同調して執行委員会よりの賃上闘争をするか否かの時に鋼管工場でただ一人の賛成者

(四)  古垣澄男  昭和二五年職場代表

同 二六年職場代表

同 二七年職場代表

同 二八年職場代表、職場代表責任者

(五)  高田利夫  昭和二五年職場代表、職場代表責任者、組織部員

同 二六年執行委員候補、映画班世話役

同 二七年職場闘争委員、映画班世話役

同 二八年家庭対策部員、映画班世話役

同 二九年執行委員候補、職場闘争委員

住宅対策委員、福利委員、家庭工作隊員、映画班世話役

(六)  清家義雄  昭和二五年入社時の履歴詐称が問題となり時の友松組合長の話合で職員となる(元川崎製鉄執行委員)

(七)  越後全司  昭和二四年九月より昭和二九年六月まで情宣部員並びに文化活動

(八)  岡本勇   昭和二三年職場代表

同 二四年職場代表

同 二六年職場代表

同 二三年より職場闘争委員並びに団体交渉委員

(九)  平坂春雄  昭和二二年職場代表、青年部常任委員

同 二三年職場代表、青年部副部長、執行委員、金鉄労関西支部執行委員

同 二四年執行委員、全金属兵庫支部執行委員、尼崎全労協委員

同 二五年渉外部長、全金属兵庫支部常任委員

同 二六年組織部長、組合専従

同 二七年副組合長、組合専従

同 二八年執行委員、鉄鋼労連中央執行委員として本部専従、日本労働組合総評議会評議員

同 二九年執行委員、鉄鋼労連青年婦人対策部長として本部専従、日本労働組合総評議会評議員

(十)  島村豊   昭和二七年賃上闘争、夏期手当闘争、越年資金闘争の職場闘争委員

同 二八年有田教文部長の部員、春季賃上闘争、越年資金闘争の職場闘争委員

同 二九年有田情宣部長の部員、賃下げ首切り反対闘争の職場闘争委員

(十一)  前田忠平 昭和二一年九月以降青年部代議員

職場代表、家庭対策部員

しかして、原告等に対する前記解雇は被告主張の解雇基準には該当せず、右のごとく原告等が従前より組合活動に熱心であり、且つ尼鋼の会社再建案に最も積極的に反対の組合活動を行つたため、これを排除するため解雇したものであるから、労働組合法第七条第一号に該当し、無効なものである。次に、尼鋼は、昭和二九年七月五日に第一次解雇者を除く従業員全員を解雇したが(以下これを第二次解雇という、)その際及びそれ以後にも原告等に対しては解雇の意思表示をしておらず、且つ右第二次解雇は合意解雇であるから、同意していない原告等は尚、被告会社の従業員であるというべきである。又、原告等に対する第一次解雇がなかつたら、争議は全く異つた方面に発展していたかもしれないもので、尼鋼は原告等の中心的反対分子を先ず解雇し、骨抜きにされた組合は全員解雇を余議なくされたものであるというべきであるから、原告等に対する第一次解雇が無効であるとしても第二次解雇の際に解雇されたものとするのが社会的にみて相当であるとの見解も成立しえないものである。そして、第一次解雇当時の原告等の平均賃金は別表記載のとおりであり、会社は毎月二八日に賃金を原告等に支払つていた。尚、原告平坂、同有田の組合専従は昭和二九年六月一日の組合の第一次解雇承認の全員投票によつて終了し、労働協約第一一条第七号によつて原所属の職場に復帰したものというべきであるから、同原告等に対しても被告会社は賃金支払の責任がある。よつて、原告等は、被告会社に対し、第一次解雇の無効確認と、労働基準法の趣旨にのつとり昭和三〇年一月一日以降本件労働関係が終了するまで前記平均賃金の支払を求めるため、本訴に及んだ。」と述べ、被告会社の答弁に対し、「被告主張の解雇基準のうち、(一)、(二)、(三)、(十一)号は、要件自体抽象的で客観的な解雇基準とはなりえないものであり、しかも出欠以外の資料は当初からなく、又、出欠の資料は焼却等により煙滅されたもので、原告等に対する解雇理由は後からこじつけたものである。尚、被告主張の原告有田、同岡本、同島村、同前田に対する解雇理由に対しては、特に次のとおり反駁する。

(一)  原告有田について、工場内の軌道の保線係では特に技能を問題にする程の作業ではなく、社外の組の者でも足りるほどのものである。又、出勤状況も昭和二八年には六日程事故欠勤があつた程度で、そのことについて始末書をとられたことはなかつたので、始末書をとられた人々に比し出勤状態は良かつたことが分る。尚、職場会議で高柳副長の説明に拘らず一同が有田の解雇を不当だと決定したことは、右解雇が妥当でなく、組合専従であつた同原告の組合活動のための不当労働行為であることを証するものである。

(二)  原告岡本について、地労委では、「同原告は作業報告に作業外のことを記入して、あたかも作業したごとく見せかけ……」とさえ被告は附加主張していたが、当審ではこれを主張しえなかつた。このことは資料の不正確と基準の適用が恣意的であつたことを証するもので、解雇の不当労働行為であることをごまかすため苦肉の策で抽象的な第三号を主張したものとみるほかない。

(三)  原告島村について、地労委では、「同原告は技術拙劣」とも被告はいう。尚、甲第六号証の六五(地労委での証人宮永辰治の証言記載)によれば、同原告は、「実際は温厚な人だが、組合運動に熱心になり過ぎる。」「十何年間も無欠勤であつた。」「同原告を殴つても同人から殴られるようなことはなかつた。」とあり、これを被告側証人吉竹の供述と対比されたい。かくも評価が違いうるものであろうか。

(四)  原告前田について、同原告は昭和二五年のジエーン台風で工場のため足を怪我した。又、会社から表彰されたこともある。そして、結婚後は欠勤が少くなつた。本件争議に於て同原告の父前田常三郎は杉本課長から、同原告が家庭対策部をやめるよう指示されたという。一応解雇基準に該当するとしても、もし後順位のものを組合活動のために先に解雇すれば不当労働行為となる。そして、被告は故意に資料と順位をかくしているので、同原告に対しての解雇も不当労働行為であると解するほかない。

次に被告は念書のことを取り上げ、退職金を受取り念書を差入れている原告等は第一次解雇を承認したものだと主張しているが、原告等はその印鑑を会社係員に渡したもので念書の内容も念書のことも知らぬものであり、又、会社側がそのような特段の念書を準備し、銀行にまで手をまわしていたのは、原告等が心から退職に同意しえないことを了知していたことを物語つている。尚、退職金については、昭和二九年四月一二日会社の再建案をめぐり部分ストに入り、同年四月二二日全面ストに突入してから、原告等組合員の生活は極度に窮乏、そのため遂に第一次被解雇者の中から「自殺三件、離婚五件」という悲劇をうむ状態となり、原告等は自己及びその家族の生活を維持するためやむなく退職金を受領したもので、退職を承諾したものではない。最後に、賃金請求についての被告の主張も次のとおりすべて理由がない。即ち被告はその(一)において時効消滅を主張するが、本件においては解雇無効、現職復帰、給与支給につき当初から争つているものであり、労働基準法の規定は賃金のみの請求権を行使しない場合の規定であるから、本件には適用ないものである。同(二)の主張については、微妙な解雇とは誰が判断するのか、原告等は無効な解雇であると当初から判断主張している。微妙だと解しているのは被告のみである。又、微妙だと解してあえて解雇したとすればその責任は重大である。同(三)のような理論が成立するとすれば全員解雇は不用である。しかも尼鋼は一五八名を保安要員として採用しているが、賃金不用の要員であるか。不当労働行為を固執する被告の責に帰すべき事由による受領遅滞であること明白である。尚、被告は主張してはいないが、労働基準法第二六条の休業手当の規定は、本件の場合のごとく故意に個別の労働者の就業を拒否した場合には適用ないものであることを附加する。又、被告は「解雇後他に就職して得た収入控除論」を主張しているが、民法第五三六条第二項の「債務を免れたるに因りて得たる利益」とは解雇によつて不必要となる出勤のための交通費のごときものを指すので、「別の原因」の加つて得た賃金には及ばないものである。又、労働者にとつて、解雇ははかりしれない精神的打撃を与えるのみならず、被解雇者は、「解雇当時の平均賃金で請求するのが通常で、昇給、ベースアツプや夏季、越年等の諸手当も支払われず、貨幣価値の変動も考慮されず、更に、被解雇者が生きんがためやむなくする借金の利息は決して年五分という低い法定利息のようなものではないこと等の事情を考慮すれば、収入控除論は全く不合理なものであり、正義観上も又実体法上も支持しがたいものである。」と述べた。(証拠省略)

被告会社訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として、「原告等の主張するとおり被告会社に吸収合併された尼鋼は第一次及び第二次解雇を行つたが、第一次解雇の日時は昭和二九年五月六日である。原告等に対する第一次解雇が不当労働行為で無効であるとの原告等主張は否認する。即ちこれを詳説すれば、尼鋼は昭和二九年初頃から経営に行詰り、これを乗切るため同年三月三一日尼鋼労働組合に賃下げを含む企業再建案を提示したが同組合はこれを拒否した。そこで会社側は危機突破策として人員整理による縮小生産計画案を提示したところ、これまた組合の容れるところとならなかつたので、同年五月六日企業存続のためやむをえず、原告等を含む三八一名に対し解雇通告をなし、労資が対立していたが、同年六月一日尼鋼が不渡り手形を出すに及んで同組合も全員投票で右第一次解雇を承認した。しかしながら時既に遅く尼鋼の操業は全く不可能となり、同組合と折衝のすえ、その協力の下に同年七月五日無条件でその時に在籍する従業員全員を解雇した(同年七月二日兵庫県地方労働委員会も全員解雇やむなしとの斡旋案を提示している)。そして右第二次に解雇した従業員の中から一五八名の者を保安要員として採用し、警備、電気給水の業務、それらの労務管理、事務関係の残務整理、設備保全等にあたらしめたが、これは争議中の組合との協定による保安要員二〇五名、その外の非組合員約六〇名合計二六五名とくらべて、はるかに少く、工場保全に必要な最少限である。尚、再雇用した保安要員は優秀な者で、若干の例外を除いては、終戦前に入社した永年勤続者で、且つ職分を有するものに限つた。そして右解雇当時、工場再開の見通しは全然立たず、完全な整理に入つたが、昭和三〇年二月頃鉄鋼業界は一転して好況となり、株式会社神戸製鋼所で尼鋼をその系列下に入れるということになり、翌三月から準備にかかり同年四月五日から操業を開始するに至つたものである。右のごとく第一次解雇は企業維持のためのみの目的をもつて行われたもので、それ以外の何等の意図もなかつたことは、その後の尼鋼の運命からみても極めて明白である。次に原告等主張の組合活動という点についてみれば、先ず、被告会社の知つている範囲における原告等の組合役員歴等は次のとおりである。

(一)  原告平野  昭和二七年職場代表

同 二八年組合書記専従

同 二九年執行委員。その余不知

(二)  原告有田  昭和二六年職場代表

同 二七年夏季闘争委員

同 二八年以降執行委員。その余不知

(三)  原告土居  昭和二五、二六年職場代表

同 二七年執行委員。その余不知

(四)  原告古垣  昭和二六、二八年職場代表

(五)  原告高田  昭和二五年職場代表

同 二九年職場闘争委員、住宅対策委員、福利委員。その余不知

(六)  原告清家  入社時の履歴詐称(川崎製鉄に就職していたのに、これを帝国酸素としていた)が問題となつたことは事実だが、川崎において組合執行委員であつたかどうかは不知

(七)  原告越後  全部不知

(八)  原告岡本  昭和二六年職場代表、春季賃上闘争及び越年闘争の団体交渉委員

同 二七年秋の一時金闘争の職場闘争委員

同 二八年春季及び越年闘争の団体交渉委員

同 二九年職場闘争委員。その余不知

(九)  原告平坂  昭和二三年ないし二六年執行委員

同 二七年副組合長

同 二八、二九年執行委員。その余不知

(一〇)  原告島村 昭和二七年秋季一時金及び越年闘争の闘争委員、団体交渉委員

同 二九年職場闘争委員。その余不知

(一一)  原告前田 全部不知

ところが尼鋼労働組合は組合長一名、副組合長二名、書記長一名、執行委員一五名からなる執行部の外、組合員二〇名につき一名の割合で選出される職場代表(昭和二五年から組合員の総数平均千七・八百名であるので職場代表は八・九〇人)を有しているが、闘争状態となるとその他に多数の闘争委員、職場闘争委員、団体交渉委員等が選出される。例えば本件企業再建案反対闘争の職場闘争委員は一三四名もいた。従つて闘争委員といつても必ずしも指導的地位ではなく、いわんや部員、家庭工作隊員というのは単なる組合の一員であつたとの意味に過ぎないというべきである。

尚、本件闘争で闘争委員会が会社案を呑んだとの原告等の主張は原告等の記憶の間違いである。しかして、第一次解雇当時の在籍従業員は一、八〇二名であるから、被解雇者三八一名のこれに対する割合は約二割一分であり、他方、昭和二五年以降組合三役及び執行委員であつた者並びに職場代表、職場闘争委員、闘争委員、団体交渉委員に二度以上なつた者は合計二一六名あり第一次被解雇者中右要件にあつた者は五〇名であるからその割合は二割三分、又、本件闘争における闘争委員三〇名、職場闘争委員一三四名中第一次被解雇者は前者一〇名、後者三二名でその割合はそれぞれ三割三分、二割三分であるから、右各割合からみても、第一次解雇は組合弾圧のためなしたものであるとはいえない。会社は、先ず縮小後の生産計画を策定して各職場ごとに必要な人員を厳密に算出し、整理人員を三八九名と予定し、次のごとき解雇基準を設け、括弧内基準も担当者に指示した。

(一)  技能低劣又は非能率な者(技能がその所属する職場の他の従業員に比較して劣るか又は非能率的である者、但し養成過程にある者で将来性のありと認められたものについてはこの限りでない)

(二)  会社の業務運営に対し非協力的な者(会社の業務運営に対しその所属する職場の他の従業員に比較して非協力的な者)

(三)  職場規律を乱す者(就業規則その他の諸規則、通達若しくは職場の慣行を乱す程度がその所属する職場の他の従業員に比較して著しい者)

(四)  災害頻発者(不可抗力、他人の過失又は会社の責任に起因する場合を除き本人の過失による公傷事故を頻発させた者)

(五)  出勤常ならざる者(「昭和二八年四月一日から同二八年三月末日迄以下同じ」においては(六)の基準に該当するには到らないが、無届欠勤が多いとか又は欠勤理由の薄弱な者及び最近数年間において(六)の基準に匹敵する欠勤をした者)

(六)  無届欠勤、事故欠勤を含めて一五日以上の者(昭和二八年度においてその理由の如何に拘らず無届欠勤及び事故欠勤の通算日数が一五日を超えるか又は事故欠勤が一五日以上の者)

(七)  長期欠勤者(昭和二九年三月末日現在において過去一ケ月以上欠勤し且つ解雇者選定当時も欠勤中の者)

(八)  身体虚弱疾病のため業務に不適当な者(現在結核性疾患に罹病している者又は既往症があり完全に健康体に復していないもの、精神病又は悪質な持病等のためその担当作業遂行に支障を来している者)

(九)  身体障害者(公傷による身体障害者を除き労働基準法に定める身体障害基準第八級以上の級に該当する者)

(一〇)  既婚女子で夫の収入のある者(夫の収入額の如何を問わず又内縁関係にある者をも含む)

(一一)生産縮少により余剰人員となつた者(所属職場が廃止されるか又はその所属職場の残留者が新定員を超過し余剰人員となつた者で配転先のないとき)

そして尼鋼は次にのべる理由で原告等を解雇基準に該当するものとして解雇した。

(一)  原告平野 昭和二二年八月二六日入社し最初は鋼管課に所属、同課の冷牽職場に勤務していたが、翌二三年秋に冷牽作業が中止されたので以後は同課の操炉職場に勤務することとなつた。同原告は昭和二九年四月現在において操炉職場の従業員中では勤務年限が最も浅く又その技倆も拙劣で例えば同人の担当する鋼管材を加熱する場合四角形鋼塊については四面共均一に加熱するように転回作業を行うのであるが、同原告はこの作業をうまく行うことが出来なかつた。そこで会社は同原告を前記解雇基準の(一)に該当する旨判定して解雇した。

(二)  原告有田 昭和二三年九月二五日入社、以後土建課に所属し保線工として勤務していたが、解雇の直前の四年間の事故欠勤についてみるとその回数は昭和二五年度においては二一日、同二六年度においては二六日、同二七年度においては二七日、同二八年度においては六日であつた。尼鋼では労働基準法所定の日数の二倍に相当する年次有給休暇を与えていたし又有給の慶弔休暇を設けていた関係で事故欠勤をする者は比較的少人数であり、原告のように毎年連続して二〇日以上の事故欠勤をするようなことは殆んど他に例を見ない。又原告は入社以来五年有余にわたり保線工として勤務したにもかかわらずその技倆も拙劣で上達が遅く、例えば同原告の担当する犬釘打についていえば、同僚が三回程度で打込むものを五、六回を要していた。又分岐点組立或は曲線敷設のような作業においても、組立が出来ないので同僚と相番に編成することが出来ず常に器材運搬や道床鋤土又は突固め等の簡易な作業しか担当させることができなかつた。そこで会社は同原告を前記解雇基準の(五)及び(一)に該当する旨判定して解雇した。

(三)  原告土居 昭和二二年一一月一日入社、鋼管課精整職場に勤務していたが、屡々無断で職場を離れた。同原告の担当する管切断機作業は二名一組で行うものであるが、右のような職場離脱のため屡々隣接職場の矯正機が中断され他の応援を得てこれを続行するような有様であつた。又上司特に下級の監督者の指示に従わず殊に同原告の担当する管切断機について上司から修理を命ぜられたような場合には何故かこれを嫌忌して修理作業に従事しなかつた。そこで会社は同原告を前記解雇基準(三)に該当する旨判定して解雇した。

(四)  原告古垣 昭和二三年一一月一五日入社、鋼管課操炉職場に勤務していたが操炉職場においては原告平野と共に勤務年限が最も浅くその技倆も拙劣であつた。又同原告は性粗暴にして自我が強く同僚との折合も悪く上司に対しても服従心に欠け殊に下級監督者に対してはそれが著しかつた。例えば昭和二八年三月頃先任心得である新村巳之助に対し「君は再加炉で仕事をするように」と上司の作業割振を行つたことがあり又昭和二五年頃直属の上司である係長補佐の今野栄作に対し「君がいると職場が不明朗になるから退職するか他の職場に行つてもらいたい」と申入れたりする等、職制を無視する所為にでたほか、昭和二八年秋頃には同僚の浜田松次に対し作業上のことで暴力を振つたことさえある。そこで会社は同原告を前記解雇基準(三)に該当する旨判定して解雇した。

(五)  原告高田 昭和二三年八月一四日にロール旋盤工として入社、鋼板課ロール旋盤職場に勤務していた。会社の生産縮小案では同原告の所属する鋼板工場の生産を半減せしめるために従来の二交替作業を一交替作業に切替えてこれによつて生ずる剰員を整理するというのであつた。そしてその一部であるロール旋盤職場では従来他職場よりの不定期応援者一名を除き責任者一名と原告、清野則、平野一三の三名の作業員で構成されていたところを一名減員することとなつたのであるが、

(イ)  同原告は、ロール旋盤職場では勤続年数が最も浅く且つ責任者を除いては最も年長者であり、

(ロ)  この職場では単独作業もあるが、共同作業もあり、原告はこの面で協調性に欠ける性格の持主で殊に清野則との間に対立があつたし、

(ハ)  同職場においては責任者の下に清野則及び同原告が並立し、その下に平野一三が配置せられていたが、作業の内容からみて一名減員する場合は責任者の下に清野又は原告の一名、その下に平野と配置することが好ましく、この場合その成績において清野の方が原告より優秀であつたのであり、

(ニ)  同原告はもともと型物専門のロール旋盤工で、職場ではロール旋盤を扱つていた。ところがロール旋盤はこの職場で扱うロール研磨盤より操作が容易であるからロール研磨盤を担当していた清野及び平野を残留せしめる方が職場の構成からいつても得策であつた。

右の次第で若しロール旋盤職場において一名を減員するとするならば原告をその対象とせざるを得なかつたのである。ところで同原告は前述したごとくもともと型物専門のロール旋盤工であつたため鋼板工場よりは条鋼課の工場に適任であつたわけだが、前記基準によつて条鋼課のロール旋盤工に欠員を生ずるに至らなかつたこと、同原告が他の技能を有していなかつたこと並に体位が貧弱で且つ高年齢であつたこと等のため他の職種に配置転換することは不可能であつたので同原告を前記解雇基準(一一)に該当する旨判定して解雇したのである。尚同原告の職場では責任者を除き前記三名共引続き組合役職につき、会社の賃下げを含む再建案に全員が反対していたのであるが、同原告は組合において主として福利厚生部面を担当しておつたし他の二名の組合歴と比較したとき組合活動の主流にいなかつたことは明らかである。

清野則 組合歴

昭和二四年職場代表、組織部員、給与委員

同 二五年組織部員、拡大闘争委員、選挙管理委員

同 二六年職場代表、組織部員、定期大会資格審査委員

同 二七年職場代表、拡大闘争委員、組織部員、選挙管理委員

同 二八年夏期闘争団交メンバー

同 二九年争議中財政部給食係責任者

平野一三 組合歴

青年部委員に約五年間にわたり引続き就任

昭和二七年全金属兵庫支部青年部副部長

同 二九年争議では本部オルグとして争議推進の中核体となつて活躍

(六)  原告清家 昭和二五年二月六日入社し、以後製鋼課起重機運転工として勤務していた。起重機運転は安全に反する場合以外は必ず下にいる段取方の指示に従わねばならないのであるが、同原告はこの段取方の指示に従うよりは自己の判断で作業を行う傾向があり、例えばバツクの移動にしても下の段取方の指示した場所には持つて行かず自己の判断で移動するとか、極端な場合はノロツボのノロ取作業中下にいた職場責任者の杉本班長がノロをハツカに掛けて捲上げる合図をしているのにハツカを下げ、これと逆に下げの合図をすると反対に捲上げるといつた所為があり、職場の同僚間には同原告に対し苦情が絶えなかつたのであるが、何分にも同原告は独善的で協調性に欠ける性格の持主であるため前記のような所為のあつた都度問題にして取上げると逆に同原告から喰つてかかられることとなるから直接原告には文句をいわず原告の職制のもとへ苦情が持込まれるといつた状況であつた。そこで会社は同原告が前記解雇基準(三)に該当する旨判定して解雇した。

(七)  原告越後 昭和二三年九月二一日入社し、厚生課洗濯係として勤務していた。生産縮小計画によると厚生課の余剰人員は一〇名に達するので、同課所属の従業員について先ず(一)ないし(一〇)の解雇基準を適用して人選したところその該当者は五名であつたが原告を含むその余の五名は配置転換が不可能であつたので会社は同原告を解雇基準(一一)に該当する旨判定して解雇した。

(八)  原告岡本 昭和二二年一〇月一日入社し、最初は鋼管課精整職場に勤務していたが昭和二五年三月条鋼課に配置転換となり以後瓦斯熔接の業務に従事していた。同原告が条鋼課に転職した当時は瓦斯熔接工の資格はなく又その経験もなかつたので養成工として教育した。この期間においては勤務状況も普通であつたが熔接工の資格を取得し業務に慣れるに従つて所属上司の作業命令に反対意見を述べ素直に命令に服従しないとか、或は同僚に上司の不平不満をもらし職場の作業意欲を阻害するとか面倒な仕事は同僚に押しつけるという利己的な行動等が屡々あつた。解雇前約一年間だけをとつてみても次のような事例をあげることができる。

(イ)  昭和二八年三月一四日圧延作業終了後のことであるが、上司が圧延機スリツプのパイプ取替のためガス切断作業を行うよう原告に対し命令したが一時間余りも上司に反対意見を述べて作業に従事しようとしなかつた。

(ロ)  昭和二八年六月上旬頃加熱炉インゴツトをおこす装置のストツパーハンドが破損したので原告に応急修理を命じたが原告は熔接してももたないとか全部造り直さねばもたないといつて作業を行わなかつた。

(ハ)  昭和二八年一一月職場の従業員全員が休日出勤してスキツトの修理作業を行つたその際ノロ取り中スキツトの破損箇所が発見されたので上司において原告にその修理を指示したところ原告は予定外の仕事であるとか炉が熱いからやれないとかいつてこの作業を行わなかつた。

(ニ)  昭和二九年二月ミスロールの切断を上司から指示されたところ作業を嫌つて同僚一人にその作業を押付けたため作業がはかどらず、矯正機作業を一時中止せざるを得なくなつたこともある。

尚同原告が鋼管課より条鋼課に転属したのは原告が条鋼課長に対し所属の幹部と意見が合わず面白くないから条鋼課に配転して欲しいという本人の申出を会社が認めたによるものである。ところが希望通り条鋼課に転属になつてからも最初配置された大形工場の上司との折合が悪いために中形工場に配置換したのである。そこで会社は同原告を前記解雇基準(三)に該当する旨判定して解雇した。

(九)  原告平坂 昭和一六年三月養成工として入社し、昭和二〇年九月一旦退社した。退社後は製図工として他社に勤務していたが、翌二一年八月二〇日製図工を希望して再入社したが欠員がないまま工作課に所属し以後仕上工として勤務していた。同原告は仕上工としての経験が殆んどないため仕上職場で仕上工としての訓練を受けたのであるが、無器用であつて技倆の進歩も遅く、同原告と同程度の訓練を受けた仕上工が機械の修理等を独力でなし得るようになつても同原告は中ハンマーさえ満足に振れず又機械部品の摺り合せ或はキー道掘り等も下手でヤスリの使い方も一人前にできないような状態であつた。そこで会社は同原告を前記解雇基準(一)に該当する旨判定して解雇した。

(一〇)  原告島村 昭和一六年三月一〇日入社し、以後鋼管課圧延職場に勤務していたが常に不平不満をならべ性格もややもすれば昂奮するたちで上司の命令に服せざるのみならず直属上司に対し暴力を振つたことさえ再三に止まらず勤務も怠慢で生産を阻害する行為も少なくなく、例えば夜勤作業では、就業時間中によく眠むるのみならず積極的に作業を行う同僚に対しては個人攻撃を加えるといつた所為も少くなかつた。そこで会社は同原告に対し前記解雇基準(三)に該当する旨判定して解雇した。

(一一)  原告前田 昭和二一年九月一八日入社し、以後条鋼課に勤務していたが昭和二八年度において事故欠勤通算一二日及び無届欠勤通算一五日があつたので、解雇基準(六)に該当する旨判定して解雇した。尚、かりに原告等に対する右解雇が不当労働行為で無効であるとしても、原告平坂、同高田を除く原告等は右解雇を承認したものである。即ち原告島村は昭和二九年六月二七日、同岡本は同年六月二八日、同有田、古垣、越後、前田は同年六月二九日、同平野は同年七月四日、同土居、清家は同年七月五日それぞれ退職金等を受領する際、「今後この解雇の効力を争い、又は更に金銭の請求をなす等のことは決して致しません。」という内容の念書を尼鋼に差入れたもので、その内、原告島村、平野、清家以外の者は自らこれに署名し、原告島村は昭和二九年六月二六日午後一一時頃、尼鋼の給与係長小林道之助宅を訪れて印鑑を差出し、「自発的に退職するから退職金を支給してくれ、二七日朝早く受取りに行くからそれ迄に退職に関する一切の手続を完了しておいてくれ。」と頼んだので、右小林が同原告に代り念書を作成したものであり、原告平野は同僚の訴外横田久雄に、同清家は原告土居にそれぞれ依頼して、これらを代理人として退職の手続をとつたもので、当時既に多くの同僚が念書を作成していたので、同様の念書を作成することは原告平野、清家も十分予想していた筈である。昭和二九年初頃からの尼鋼の経営行詰りは、本件争議で更に拍車をかけられ、同年五月三一日手形が不渡りとなつたことから、操業再開不可能、倒産ということが従業員間にも次第に認識されてきて、組合は同年六月二七日三八一名に対する第一次解雇を承認したもので、前記念書はかかる情況のもとにつくられたものであるから原告平野、同高田を除く原告等は会社財産が債権者団体にゆだねられる以前に退職金を受領し、将来にそなえた方がよいとして解雇を承認したものである。従つてその時期を以つて右原告等と尼鋼との雇傭関係は決定的に終了したものである。

原告等の賃金請求についてもこれを争う。尚、(一)本件訴状が提出されたのは昭和三二年七月二五日であるから、仮りに本件解雇が無効であり原告等に賃金請求権があるとしても昭和三〇年七月二五日以前の分は労働基準法第一一五条により時効によつて消滅しているのである。(二)本件の如き解雇の意思表示が無効であるかどうかは一般に極めて微妙な事実認定又は法律判断にまたなければならないところであるから、右意思表示が無効であるという一事によつて一概に使用者の就労拒否が、その責に帰すべき事由によるものと推定することはできないといわなければならない。労働者の解雇理由、これに対する使用者の調査の程度、解雇前後の事情等から綜合して、使用者が解雇を有効であると信ずるにつき相当の理由があり、かつこれを信ずるについて過失がないと認められる場合は使用者の就労拒否がその責に帰すべき事由による受領遅滞とはいえないので、賃金の支払義務はないというべきである。即ちこれを本件にみれば(1)第一次解雇は前記の如くやむを得ない事情で行われたもので、二ケ月後には同様理由で全員解雇されていること、(2)休業若しくは全面ストライキ中にもかかわらず、尼鋼は整理基準の適用にあたつて相当な日時を費して極めて慎重に該当事実の調査を行つていること、(3)原告平坂、同高田を除くその余の原告等は念書を差入れて本件第一次解雇を承認していること、(4)本件に対する不当労働行為審査事件において兵庫県地方労働委員会、中央労働委員会の何れもが、原告有田同岡本同島村同前田については不当労働行為でないとして申立を棄却し、その余の原告についても「全員解雇の際解雇されずに今日に至つたものと考えるべき何等の証拠もない」として右全員解雇の際に解雇されたものとして取扱うことをもつて「きわめて適当なところと考えられる」としていること等、前記要件を充足しているので、原告等に対する就業拒否は尼鋼の責に帰すべき受領遅滞ではなく賃金支払の義務はない。(三)仮に右の主張が理由ないとしても、尼鋼は昭和二九年七月六日以降整理に入り、工場は閉鎖され、保安業務を除き操業は全く不可能な状態にあつたのであるから、原告等がかりに依然として従業員たる地位を有していたとしても就業せしめる作業が存しなく、従つて少くとも前記七月六日より操業再開の昭和三〇年四月五日迄の間は尼鋼の責に帰すべき事由による受領遅滞とはいえないから、この間の賃金支払義務も亦ありえない。

又、民法第五三六条第二項但書の「債務を免れたるに因りて得たる利益」とは、単に債務の免脱自体のみを原因として生じた利益のみに限定すべきものではなく、債務者が債務の免脱によつて得た時間を利用し、更に他で働くという別の原因も加つて得た賃金も、債務の免脱がなかつたならば得られなかつたものであるから、債務を免れた者が通常得られる程度のものであれば債務を免れたと相当因果関係にあるので、これをもつて「債務を免れたるに因りて得たる利益」というべく、従つて「尼崎市長、西宮市長、神戸市灘区長、大阪市東淀川区長、大阪市此花区長に対する調査嘱託の回答書に記載してある原告等の収入はそれぞれ原告等の請求賃金より控除すべきである。」と述べた。(証拠省略)

理由

被告会社に吸収合併された株式会社尼崎製鋼所が、先ず、原告等を含めてその従業員三八一名を解雇し(第一次解雇。但しその日時については原告等は昭和二九年五月四日を、被告は同年同月六日を各主張する)、その後同会社は同年七月五日に残りの従業員全員を解雇したことは(第二次解雇)、当事者間に争いがない。

ところで、原告等は請求の趣旨第一項に於て、「原告等に対する右第一次解雇の意思表示は無効であることを確認する。」旨の判決を求めているが、確認の訴に於て権利保護の資格あるものは、具体的権利又は法律関係の確認であることを要し、且つ、確認の訴は現在の時点に於て紛争を解決することを意図するものであるから、右権利関係又は法律関係は現在のものであることを要するので、原告等の右第一次解雇無効の確認申立は、結局原告等は現在なお被告会社の従業員たる地位にあることの確認を求めているものと解せざるをえない(そのように解しないと、右申立は、法律行為の無効というすでに完結した法律行為の効果を争うことになり、権利保護の資格を欠く不適法なものとして却下を免れないことになる)。従つて右の意味に於て、前記第二次解雇が重要な意義をもつているものと思われるので、そのことについて考えてみることにする。

先ず被告はこの点につき経営不振による工場閉鎖のため全従業員を解雇した旨主張しているので、この点について判断するに、その方式及び趣旨並に証人鷹取誠一の証言により真正に成立したものと認められる乙第一一号証、証人鷹取誠一の証言により真正に成立したものと認められる乙第一二号証、証人益田脩の証言により真正に成立したものと認められる乙第一五号証、並びに証人佐藤俊夫、同鷹取誠一(第一、二回)同益田脩の各証言に弁論の全趣旨を綜合すれば、朝鮮戦争の納つて来た昭和二七年下期頃からの鉄鋼界の一般的な不況等のため、尼鋼もその経理が悪くなる一方で、同二九年に入つてから銀行融資等が思うように行かず経営に行詰りを来たしたので、同年三月二九日尼鋼組合に対し従業員の給料を一年間一五%引下げる等の企業再建案を提示し、双方協議会で協議したが同年四月一九日組合はこれを拒絶したこと、そこで会社は同組合に人員整理による縮小生産計画案を提示したが、これ又組合の容れるところとならなかつたので、同会社は同年五月四日附書面で原告等を含む従業員三八一名に対し同月六日限り解雇する旨通告したこと、それより先、組合は同年四月一一日部分ストに入り同月二二日全面ストに突入し、以後右第一次解雇をめぐり労資対立を続けていたが同年五月末会社が不渡手形を出すに及び、遂に同組合は同年六月二七日全員投票によつて組合として右第一次解雇を承認するに至つたこと、しかし不渡手形を出した以上会社としてはもはや操業再開の余地は全くなしとして翌七月二日組合に対し同月五日附で従業員全員を解雇する旨通告し、又組合から斡旋申請を受けていた兵庫県地方労働委員会も同日全従業員解雇もやむをえないとの斡旋案を提示してきたので、同組合は同月四日全員投票で全員解雇を受諾し、翌五日会社は各従業員に対し文書で解雇通告をしたこと、尚右第二次被解雇者の中から会社は一五八名を翌六日保安要員として再雇傭し、工場保全等にあたらせたが、争議中の保安要員は組合との協定により組合員二〇五名、その外非組合員約六〇名もいたこと、そして同年七月一〇日会社は内整理のため債権者集会をもち、同年一一月二〇日債務返還内容等の決議をするまでに至つたが、昭和三〇年に入つてから鉄鋼界が一転して好況となり、三和銀行と株式会社神戸製鋼所の話合で、同製鋼所の系列下に入るということで、同年四月五日に操業が再開されたことがそれぞれ認められ、他にこれらの認定を覆すに足る証拠はない。

右認定事実によれば、右第二次解雇は被告の主張するように尼鋼の経営行詰りから操業不可能となり工場閉鎖のやむなきに至つたため当時在籍した全従業員に対しなされたものというべく、前記保安要員の再雇傭及びその後の同会社の操業再開の各事情も前記認定のとおりである以上、右二点のみをもつてしては第二次の全員解雇が組合弾圧のためになされた不当労働行為で無効なものであるとすることはできず、他に同解雇を無効にするに足る事実は主張、立証されていないので、結局第二次解雇は有効になされたものといわざるをえない。尚原告等は右第二次解雇は個々の従業員と会社間の合意解雇である旨主張しているが、前記認定資料によると尼鋼組合が全員解雇の通告を全員投票で受諾したのは両者間の労働協約に基づき組合としてなしたものであるから、右原告等の主張は理由がない。

ところで原告等は、右第二次解雇の際には会社は原告等に対し解雇の意思表示をしておらず、又、同人等に対する第一次解雇がなかつたら、争議は全く異つた方面に発展していたかも知れないので、右第一次解雇が不当労働行為で無効であつたとしても原告等も他の従業員と同様右第二次解雇の際には解雇を免れえなかつたものだとすることはできない旨主張する。なるほど右第二次解雇の際尼鋼は原告等に対し明示の解雇の意思表示はしていない。しかし意思表示は一定の効果意思の表示であることを明示してなすのが普通であるとはいえ、これに限らず、場合によつては黙示の意思表示のあることを否定することはできない。これを本件についてみれば、前記認定のごとく第二次解雇は、会社の経営の行詰りから操業再開の見込みなしとして工場全部を閉鎖するのやむなきに至つたため、当時在籍した従業員全員に対しなされたものである以上、かりに原告等に対する第一次解雇が原告等の主張するように不当労働行為によつて無効であつたとしても、原告等も亦右全員解雇の際他の従業員と運命を同じくして解雇されたもの、即ち、右全員解雇の意思表示は、原告等に対する第一次解雇が無効だとしても、工場全部を閉鎖してしまうからこの際原告等も同時に解雇する旨の予備的解雇の黙示的意思表示を含んでいたものとみるのが相当であり、弁論の全趣旨よりして原告等はその頃全員解雇の事実を知つたものと推認できるから、右黙示の意思表示もその頃原告等に到達したものとみるべきである。

そして前記認定のごとく第二次の全員解雇は有効であるから、原告等と尼鋼との雇傭関係は第一次解雇の意思表示の効力のいかんを別として、右予備的解雇の意思表示によつて、原告等全員について昭和二九年七月五日頃消滅するに至つたものといわざるをえない。

従つて被告に対し原告等が現在もその従業員であるとの確認を求める請求、及び前記予備的解雇後の昭和三〇年一月一日以降の原告等の平均賃金の支払を求める請求は、その余の点を判断するまでもなく、いずれも失当なものとして棄却すべく、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を各適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 森本正 西村清治 緒賀恒雄)

(別紙省略)

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